以下は、私が高校卒業時の文集に書いた漫画評論です。さすが高校生というべきか、口調が明らかに調子に乗っていて非常に腹立たしいんですが、昔の自分がこれだけ分析できていたということに驚きも覚えるので、あらためて掲載しておきたいと思います。
昔は良かった、ということは正直言いたくないんですが、私が高校生のときと比較して、今の漫画業界の状態には不満があります。私の思うような漫画の芸術性に焦点を当てた作品が、昔より減っているように思います。サブカルチャーがより広い層に受け入れられるようになった結果でしょうか。ただ、こういうことは時代の流れもあるので、もう一度そういう側面に焦点が当たる時代が来ることを期待していたいと思います。
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さて、実は僕は漫画が大好きで、多趣味を自称する僕であるが、今はこれが一番楽しめる趣味でもある。そこで、この際、ここで僕的な漫画の読み方なんぞを紹介して、密かに悦に入ろうというこれまたあさましいことをしでかそうというわけだ。
さて、まず断っておくと、僕の漫画の読み方は、素人とも玄人とも違って、かなり独特であるらしい。だいたい芸術においてはそうなのだが、作品の「良さ」というものは案外絶対的なもので、その分野での玄人になってくると、特にしがらみがなければ、ある作品への「良さ」という点での評価は段々統一されてくる。ただ、それとは別に「好み」という評価も出てくる。結局芸術というものは、ひとりひとりにとっては、その作品が「良い」かどうかなんてどうでもよくて、自分が「好き」か「嫌い」かで全部判定するはずの事なのであって、そういう意味では、素人とは、未熟な存在というよりは、玄人とは全く別世界の人間といえる。馬鹿にするような言い方だが、素人は素人なりに楽しめばいいのだ。それはスポーツなどでも同じだ。そして、そういう素人の世界でも、ある種の好みなどで共通することが多ければ、流行となってくるわけだ。要するに、素人うけ、玄人うけ、もしくは両方からうける作品というものがあって、それは全体としてだいたい固まっているのだが、僕の好きな作品なんかは、素人にも玄人にもうけないものが多い。しかも、ただ「好き」なのではなく、一応その「好き」にも理由があるのに。そういうわけで、僕的な漫画の読み方を紹介するといっても、それが一般に当てはまり、道理にかなったものであるかは実に疑わしいのだが、別にそんなことはどうでもいいといえばどうでもいい。
さて、漫画について語る際に、漫画というメディアの特徴を一言で表現するなら、「何でもあり」という言葉がぴったりだろう。もっとかっこよく言えば、「自由」であるとも言える。とかく漫画は何でも出来る。もちろん、二次元の範囲内の事ではあるが、三次元が二次元より高等なものだということはなくて、二次元は三次元の要素を有していないかもしれないが、三次元も、二次元の大事なものを捨ててきたと言える。特に、二次元は、三次元では難しい抽象表現が比較的簡単に出来るという事は大きい。他の芸術と比べても、絵画は平面のようだが、つながりがなくひとつで存在する分、点の要素が大きく、文学は、言葉を直線的に並べた、線の要素が強い。これらのメディアは、ある種、その制約条件の中でいかに表現するかに力点を置いているようだが、漫画は全く逆で、目の前にはただ白紙。何でも出来る状態から、特に何をするか、という事が一番大事な事になる。何でも出来るといっても一度に全ての事が出来るわけはなくて、幾つかの要素を選び出す事になるわけだが、そのあえて選んだ要素をいかに強く表現し、力を発揮していくか、それが漫画の全てである。
そういう「何でもあり」のものであるがゆえに、漫画には様々な側面がある。例えば、気楽さ。今まで漫画を芸術と呼んでいたのにしっくりこない人もあろうかと思うが、漫画は、目指そうと思えば立派な芸術となる。だが、別にそんなことを考えなくても、何がどう面白いとかではなく、一種の気楽さで成り立つ側面が漫画にはある。前の素人の楽しみ方がまさにそれである。世間で漫画が文化的に低く見られているのは、こういう気楽さという側面のみを見られてのことだろうと思うが、ひとつのメディアの中に芸術性と娯楽性をともに有しているというのは、それだけ表現の幅が広いということで、この二兎を追って成功している作品も多い。だから、それを取り上げて、低俗だなどというのはいささか見当違いではないかと思う。そういう問題ではないのだ。また、上手さ。このように、漫画には様々な見方があるので、ただ「上手」に仕上げれば良いというものではない。他の大概の芸術は、まず「上手」である事が前提条件であって、その上で何をするかというものが多いと思うが、漫画は、「下手」でも良い。「下手」には「下手」なりの表現の方法があり、それは「上手」な人のものと正面から比較できるものではない。「下手」だからこそ活きた表現が、変に「垢抜けて」しまったために、何の魅力もなくなってしまったという例を今までにも幾つか見てきた。さらに、努力。芸術は一般に努力はどうでもいい。何年間もそれだけに血を吐くような思いで精魂込めてかきあげた作品が、鼻歌交じりに30分で適当に仕上げた作品よりつまらない事だってある。もちろん漫画にだってそれはあるのだが、漫画は比較的努力が報われるメディアではないかと思うのだ。絵はある種どうしようもない面があるが、構成なんかでどうすれば面白いかを丹念に検討し、構築すれば、下手でも名作を産む事が出来る。というよりは、いわゆる「名作」と呼ばれる種類のものは、しっかり構成を立ててストーリーを組んだものであることが多いので、そんなこと考えなくてもちゃっちゃと仕上げられる「上手い」人より、「下手」だが丹念にやる人から産まれる可能性の方が高い。ただ、「名作」が一番というわけではないので、どちらが良いとかそういう問題ではないのだが。個人的には、「上手い」人が小手先で描いたような作品も好きだ。まあとりあえず言えるのは、努力すれば何でも良いと思った時点でその人は終わりであるということだろう。
とまあ、要するに漫画は「何でもあり」というのが結論なのだが、それではここで終わってしまうので、ちょっと玄人きどりで、漫画を、特に根幹をなし大事であろうと思われる、流れ・絵・言葉の三側面を中心に見ていきたい。
漫画の醍醐味、やはりそれは「流れ」であろう。漫画は普通流れるものだ。もちろん、絵という手段を使っているので、流れよりも絵に主眼を置くことも出来るが、やはり漫画としての醍醐味と言えば、この「流れ」である。しかも、漫画の「流れ」は、他のメディアに比して独特だ。漫画は、映画に似ていると言われる事がある。それは、映画において、スクリーン上に、登場人物や風景などをいかなる角度で、いかなる大きさの配分で撮るかという事が、漫画では、コマに、どういうふうに絵を描くか、そしてその上で、その1カット1カット、1コマ1コマをいかにつなげるか、ということだ。映画では、映像の流れを絵コンテという形で簡単に絵にして考えるが、これは一種の簡易漫画とも言える。ただ、映画と漫画で根本的に違うのは、まず、時間軸の問題だ。漫画には時間軸はない。時間 配分は読者の手に委ねられている。また、スクリーンは大きさ一定、形一定、場所一定だが、コマは、大きさも形も場所も好きに使える。この2つの事で、僕は、映画は直線的で、漫画は実に平面的な流れだと思うのだ。もちろん、漫画にもストーリーがあり、コマのたどり方は、特に工夫がない限り1通りなので、そういう意味では「曲線的」な流れと言えるかもしれない。しかし、時に立ち止まって全体を見渡す感覚は、現実において歩き回る感覚、平面を通り越した立体の感覚に近いと思う。コマの中とコマのつながりの二つの平面性、ほんにコマというものを発明した人は偉い。
また、「流れ」というものの関連で、「間」というものがある。漫画のコマの役割としては、連続をつくるということもあるが、逆に、連続するものを断ち、間をつくるということがある。その断ち方をうまくやれば、現実のようにひとつづきの世界では決して有り得ないんだけれども、どこか現実的なようでもあり、なぜか面白い、そういう味をつくる事が出来る。
さらに、そういう「間」の世界において不可欠なのが、やはり言葉の役割だろう。漫画の世界は、たいていはセリフのかけあいを中心に進む。「間」をつくる場合、その前後のキャラの動きや表情と、そしてセリフの回し方が極めて重要だ。漫画の作品の面白さは、キャラによるところが大きい。なんだかんだ技術的に評論したところで、キャラに魅力があればその分純粋に面白くなるということは素直に認める必要がある。そして、セリフのひとつひとつがキャラの個性になり、キャラの印象を強くしていく。セリフには気を利かせれば利かすほど良い。
だが、言葉はセリフだけにとどまるようなちんけな道具ではない。言葉ののもうひとつの役割は、心理描写。心理描写といっても、それを「思っている」事をあらわすふきだしにいれたものがあるが、あれはセリフと変わらない。僕の言いたいものは、コマ、または余白の「地」の部分に書いた言葉だ。ふきだしに入れた言葉は、ある意味そのコマ内の世界の空間とは切り離され、ただキャラクタのセリフ以外には有り得ない存在になるが、それに比して、地の部分は面白い。地の部分の言葉は、それがあたかも絵の一部であるかのように、風景に溶けこむ。でも、それは絵じゃなくて、はっきりした意味を持つ言葉であるので、その言葉の意味するところ、心理の状態を、ナチュラルな形で描く世界に含めてしまう事が出来る。言葉が空間に拡がる感覚。この表現方法も実に漫画独特だと思う。
僕は、言葉が大好きである。なので、活字の小説なんかはどうも言葉を浪費しているようで好かない。漫画は一見絵のメディアである。確かに、絵が全くなければ、それが漫画と呼べるかは怪しい。だが、漫画において、言葉は厳選され、絵とリンクすることによって、その効果が増幅され、逆に絵の効果も高める。言葉好きだからこその漫画好きとも言える。
そして、その絵の問題である。僕自身は絵はど下手なので本当は偉そうには言えないのだが、創造と評論は別という持論をここぞとばかりに展開する。さて、とりあえず、漫画の絵の最大の特徴がモノクロームであることは間違いないだろう。カラー絵の漫画も一部あるが、これは今はおいておこう。さて、モノクロだが、モノクロの最大の利点は、ひとえに「あっさり」している事にあると思う。それはどういう事かと言うと、「装飾」がしやすいということだ。例えば油絵のようなモノと比較すると、油絵の方は、それなりの重厚感というか、しっかりしている事が求められると思う。そして、しっかりさせようと思うと、あまり気軽に着飾ったりできなくなる。対して、漫画のモノクロの絵は、「点」と「線」が主体であり、もともとの機能があっさりして記号的なので、割とどうとでも 扱える。いかに正確に現実であるかは問題にならないということで、デッサンが少々狂っていても大丈夫だし、その分大胆で面白い構図もとれる。また、イラスト的な平面ぺったりの味もできるし、書き込みまくって重厚な事もやろうと思えばできる。つまり、絵を自由に着飾り、独自におしゃれをする事が出来るというわけだ。
また、漫画ならではのものとして、スクリーントーンの存在も見逃せない。トーンは、モノクロである漫画に「色」をつける事が出来る、何とも便利な存在である。しかし、個人的には、漫画を一番いかすのは「線」だと思っているので、トーンはあまり気軽に使って欲しくないというのが本音だ。ただ、トーンを「色」でなくコントラストという意味合いで使う場合、色彩のコントラストとはまた違ったものとなって面白い。ただ、細やかな濃淡感覚、という点では、やはり線によるそれが強いと思う。
また、ちょっとそれるが、漫画には回毎に必ずと言っていいほど扉絵があるが、実は僕はこの扉絵というものが好きだ。なぜなら、本編中では話の流れ上いつでも好きな絵が描けるわけではないが、扉絵はわりかし何でも出来るので、作者の絵のセンスが特に如実に出るからだ。扉絵が良ければ、その人は間違いなくセンスある作家だと言えるほどだと思う。
さて、今まで長々と見てきたのは、全て漫画の手段の部分である。では、こういう事をやって何をするのか、何を目的とするのか。言ってしまえば、それは作者の勝手である。ただ、僕個人としては、なにかしらのイメージ、雰囲気を運ぼうとする、そういうものが好きだ。僕の目から見れば、いくら素晴らしいストーリーを編んだり、素晴らしい事を言っていたところで、自分の世界を表現して、自分の持つイメージを実感として飛ばせていなかったら、それにはあまり価値はない。そのイメージが自分の好みのものかどうかはわからないが、イメージを表現できていれば、好きになる余地はあるということ。ただ、そのイメージは、描けばいいというものではない。例えば、桜を描けば春だということが、蝉を描けば夏だということがわかりはするが、ただわかるだけでは意味がない。それが如何に伝わるか、そこが問題なのだ。漫画というメディアは、それを伝えられるメディアだと、そう思うわけだ。
ということで、今までごちゃごちゃ言ってきたが、ここに書いたのは、本来の漫画の読み方ではない。漫画はもっと漫然と読むものだ。そういう気持ちを忘れたら、漫画読み失格であろう。